昭和五十四年七月十九日 朝の御理解
御理解 第六十二節 「昔から人もよけれ我もよけれ人より我が尚よけれというて居 るが神信心をしても我身の上のおかげを受けて後に人を助け てやれ神信心も手習いも同じ事一段一段進んで行くのじゃ俄 に先生にはなれぬぞ」
昨日学院で今修行中の、古川から、あちらへまいりまして初めて長々と手紙がまいりました。合楽に修行にまいりまして一年二ケ月でしたでしょう、その間に、まあ、いうならば合楽理念をマスタ-したというだけ、それをいよいよ学院という修行の場で、いろんな難しい学院の規則の中で合楽理念を実験し、そして実証させて頂いて、只、合楽理念の素晴らしい事に、日々まあ恐れ入り驚いておるという手紙がまいりました。
私はそれから先はまだ読んどりませんけれども、これから私が、日々まあ日記のように書いておる日々の、いうなら合楽理念の実験実証のもようを書きますから、という事を書いております。まだそれは読んでないのですね。
ですから我が身の上におかげを受けてという事は、私はそういう事だと思うんですよね。病気が治りました、こういうおかげを頂きました。勿論、そういうおかげも頂いて、まあ金光様の信心のあらたかな事を人にも伝えてゆくという事もありますけれども、本当の事はです、私共の信心というものが、この生き方で行けば一段々進んで行けるという、いうならば確証というか確信が生まれてからという事だと思うですね 最後に信心も手習いも同じ事、一段々とこうおっしゃる。この生き方でさえいけばいうならば生き神を目指していけれるんだという、この世で果たせないないならば、この信心はあの世まで持っていって、やはりあの世でも生き神を目指しての、魂としての、精進というものの基礎基盤というのもがでけた時に、我が身の上におかげを受けてという事になり、又人に確信を持ってという事になると思うですよね。
自分でも申しておりますように、まあ私は、あの人がここで修行中の時分にまあ感じた事ですけれども、ある程度血筋というものは争えんなあと、もういうならあの、金光家の名門ですからね、古川と言えば。
教祖様の奥様のお里でもあると同時に、教祖の神様のお嬢さんが古川家に嫁いでおられるというような家柄です。
今日でも、今御奉仕になっておられます、五代金光様の奥様が今日ここに修行に来ておりました、古川威智雄のすぐ下の妹さんに当たるわけですから、金光様のいうならば兄に当たるわけです。
豊美にゃ兄嫁にあたるわけです。そういう家柄に居ながら、信心のいうならば有難いといったようなものに全然触れていなかったです。こちらにまいりまして、それも暫く、五年六年は何が何やら分からん感じでしたけれども、いろいろな事を通して、本気で合楽で修行するという事になって始めて、合楽理念に触れたというてよいでしょう。それも一年二ケ月余りですけれども、合楽理念がまあ大きく唱えられるように丁度なってから前後のもう、始めからやはりマスタ-だけはさせて頂いた。
研修の時のは聞いておっても、成程素晴らしい発表をしておりました。本当に血筋とは争えんなあと思う位でございました。このマスタ-した事をです、なら、今度学院の修行の場で、いうならば実験をしてあらためて驚いたといっております。
どうぞ皆さん合楽理念の実験実証者としてのおかげを受けて、だからこれで行けば間違いないという、いうならば線を出した時に始めて私共がおかげを受けたという事になるのではないでしょうか。
この生き方で行けば、いうならばこの世でさせれない、ならばあの世までも生き神を目指して進んで行けれるという手立てが合楽理念です。
私は今日は、一段々登って行くというなら、自分がおかげを受けたという、それだけなら一段々登っていくという事にはなりませんものね。
そりゃ信心が十年続き一生続けられたというてもです、本当にああいう時にぁ、ああいうおかげも頂いた、こういうおかげも頂いたと、それこそいろいろとまあおかげを受けた話だけではです、一段々上がっていない。
信心させてもらえば一年々有難うなっくるとおおせられる。本当に間違いなく有難うなっていく手立てというその基盤が合楽理念なんです。だから間違いがない、合楽理念の、だから絶対だと、こういうふうにいわれるわけね。
だから皆さんもまあ半分はマスタ-し半分は実証しよるという程度のものではなくてです、本気でマスタ-するという事から、それをいよいよ実験にうつり、そして一つ実証していかなきゃならん。我が身におかげを受けてという事になるのじゃないでしょうか。
昨日のお月次祭の後のお説教の中にも申しましたように、たまたま前日の井出さんのところの霊祭の時の、昨日、井出さんが参って来ておられましてから、その今お供えしてあるお花の、お花を芯にしての御理解でした。菊の花ばっかりでまとめて、中には珍しい花がぽ-んと突き出るようにして中心に入れてございます。
私はいつもその花で神ながらの事ですから、御理解を頂くんですけれども、まあ菊の花は言わば合楽の世界、菊の花は合楽のシンボルのように申します。
以前神愛会の時分に、私共が修行生の先生方がつけた紋は、菊の花の中に八つ波の御紋章が入っておるというのが合楽の当時の紋でした。というように菊の花というのは合楽のシンボルのようにいわれる花ですから、まあ合楽の中に御縁を頂いておる霊様だと、ならどういう助かり方を求め願うておるかと思わせ頂いたら、あの花を頂いたんです。
だから極楽鳥という鳥がいるわけなんです。それでその御理解を頂いて、今あちらの中学三年生ですか一緒にお参りしておりました。帰って直ぐ字引を引いてみたんですね。ところが色もあれと同じカ-キ色だそうですね。極楽鳥という鳥はね、合楽の先生はどげなこつでん知ってござると言って息子が言いましたというて、昨日井出さんがお届けしておられましたが、私がそんな話をしておりましたら、それを又佐田先生が字引で引いたら、あのう英語であの花をこういうふうに、パラダイス何とかいうそうです。極楽の花というそうですが、日本名でも極楽鳥花ですかねという花だそうです。
というその話を説明を聞いておりましたら、私が頂きます事がね、それこそ冬の山の傾斜というのはあんなのだろうと思う。こんな鋭い傾斜の坂道と申しますか、それをもうどれだけか分からん程の沢山の人が、薄暗い中にです、やっと人間の見分けがやっとつく位のところう黒い感じの人達が、黒い大きな荷物を担いで、もう腰を二重にしながら、坂道ですからこんなにしながらさっさとこう登っておる。そして登っておる頂上がない。
私はそれを思わせて頂いて、いうならばもう人間の人類のほとんどの人の姿だともう思いました。信心は頂いとっても、本当の事が分からんでおる人の姿だと思いました。そして人間の幸を幸と願いながら、さあ金だ物だ地位だと言っておる人の姿だとこう思いました。
せっせと登っておる。けれどもこれは行き着くところはどこかというと、上がない限りがないです。ですけれども、ならまあその人達が亡くなっていく先はどこかというと、まあ分かりやすく言うとです、これは結局地獄道だという事です。
いつも苦しい事ばっかりの世界なんです。それを私共がね、いうならばもういよいよ人間の終着駅に近づいた時分にね、ああ金でもなかった、名誉でもなかった、人間の幸ちゃそんなもんじゃなかった、と気づく頃にはもう遅かという事、信心を頂いとってもです、さあおかげを受けるから、おかげを受けるからでお参りしているのは、やっぱりこの道を歩いているのです。
いうならば、今日の御理解から申しますならば合楽理念をマスタ-して、もう合楽理念によらなければ、いうならば神様のおかげを頂かねば立ちゆかん、神様のおかげを頂かねば他に手はない。という生き方というものが分からして頂いて、いうならば合楽理念を実験する気になり、実証してゆく体験をつんで、もうこれより他に道はないと悟ったところからです、反対のこれは合楽世界を目指すという事になってるるのじゃないでしょうか。
喜びの世界、安心の世界という世界を目指さして頂くという、これはいうなら、やっぱり登って行くのですから、ところが一段々上がって行くという、いうならば、心に響きが感じられるのです。これがお徳というのだなあ、これが力というもんだなあこれが和賀心というもんだなあと、自分の心の中に頂きながら、いよいよ確信を確信たらしめ進んで行く道なんですね。
だからこの道を行けば、絶対だと確信が持てる。それは必ず実証がありますからね こういうあり方にならせて頂いたら、こういうおかげがついてくるとい実証を示しながら人に伝えて行くという事になったら、確かな、いうなら今日の御理解の本当の真というのはそういう事じゃなかろうか。
お参りをした、お願いをした、おかげを頂いた。あなたもいっぺん参ってみなさいという事もあるでしょうね。けども、そういう事ではいうなら本当の助かりという事にはつながらない。一段々間違いなく登っていけれる上がっていけれる、上がっていけば行くだけね、いうならば若い方達が登山をする。この暑いのにああいう大きなリュックを担いで、はあはあ難儀な事じゃろうというような事じゃなくて、もうそれこそ喜びと楽しみで、それこそ愉快に登っているわけです。
ようは信心のいうならば、今、合楽を目指す信心というのはです、一段々高くなるに従って自分の心に有難いというものが募ってくる。
一段々物の見方が考え方が視野が広うなってくる。おかげの受け場が大きくなってくる。そこに大きなおかげの受け場が出来れば、大きなおかげが伴うてくる。
そういう実証を分からせて頂きながら、お互い極楽行きであり、合楽行きでなからなければならない。それには、まずは合楽理念のいうならばマスタ-である。
そしてそれを実戦であるそして実証である。威智雄さんが申しておりますように、一年二ケ月は只々、合楽理念を覚えるという事でいっぱいでしたが、その覚えた合楽理念を修行の場で、学院という修行の場で実証させて頂いて人間関係の上に、それこそこれに書いとりますが、天地が自由になる程のおかげにもつながる合楽理念というふうにいうております。そして合楽理念のあらためて素晴らしさを日々体験させて頂いておるというわけですね。
その一線上に出て私共が我が身におかげを受けて後人を助けてやれ、というのは、そこの一線上に出てからだと私は思うです。どうでも一つおかげを頂いてね、そのそれこそ信心はしておってもやっぱり薄暗い、それでもうそれこそ、林扶美子さんでしたかね、それこそ「苦しき事のみ多かりき」と一生を終わったんでは、それが一生で終わればまだいいんですよ。その苦労があの世までつながっておるから、私は恐ろしいと思うんです。
信心はこの世界を信じなければ信心はありません。だからこの世で本当に苦しき事のみ多かりきで終わっんでは、あの世はます々苦しくなって行く事でしょう。
しかし、それはもう当たり前というように苦しい中にね、そこから抜け出ろうとする意欲もなくなってしまうような事ではいけません。折角合楽に御縁を頂いたのですから、いうならば合楽行きを本当に目指さしてもらうね。
合楽理念をもってする他なしとい実験実証をいよいよ身をもって実験し、実証してそれを人に伝えて行くという事になる時に始めていうならばね、真の道を自分で体得して、その真の道を人へ実意丁寧に人に伝えて行くのが神へのお礼になるのじゃ、それが神になるのじゃとも教えておられるのですから。
この生き方なら神になる手立てが出来てゆくわけなんです。どうでもお互い信心はしておるけれども、やっぱりこの薄暗い、只金だの物だのの世界ばっかりで登っていってるような事はないだろうか。
自分の心が開けてゆく自分の心の中に、はあ、これが神の光を受けて光ってゆくのだなあといったような心の状態を感じておれるだろうか。
確かにどういう中にあってもね神愛又は神願有難いというお礼の言えれるようなな心の状態が開けておるだろうか、そういう心が開けておるならばです、登っておったその薄暗い道をです、これではいけんというて、下へ降りだした姿だと私は思うです そして、いうなら一線上に出るまでは、やっぱり飛び降りるわけにはいかん。今までこんなに難儀な道を歩いて来たんだから、それをいうなら、回れ右して行く姿がです、難儀な中に喜びを感じておるといったような時じゃなかろうかね。
そこにいうなら、難儀の中に喜びを感じさせてもらい、わからしてもろうて神愛有難し、神願有難いという心の状態を持って、いよいよ合楽理念をマスタ-する。
合楽理念による助かりという事を頂いた時に、始めてこの実感を、この実験を、そしてその実証を人に伝えて行くならば、必ず人に伝わって行く事だろう。
それがいうならば今日ここにある我が身の上におかげを受けて後に人を助けてやれという事は、本当な意味に於いては、そうい事ではなかろうかと思います。
どうぞ。